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カンボジアの歴史
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1953年、フランスからの独立を果たしたシアヌーク国王は仏教社会主義を唱え、国家体制の支柱としてカンボジアの伝統である王制と仏教を護持しつつ、一方で計画経済政策を導入。しかし、実際にはシアヌークによる独裁主義的政治運営でした。

1960年代後半、経済政策に失敗し財政が困窮すると、内部でクーデターがおこり、シアヌークは失脚。それにより1970年以降、ベトナム戦争のカンボジア領内への拡大を招く結果となり、カンボジアは戦乱に巻き込まれることになりました。その後、カンボジア人勢力同士による内戦も激化し、国内は混乱し国土は疲弊していったのです。

1975年、親中共産勢力クメール・ルージュにより内戦は事実上終結しました。

しかし、政権を握ったポル・ポト派は急進的な共産主義政策を断行したため、国内は再び大混乱をきたしたのです。

毛沢東主義影響を受けたといわれるポル・ポト派は、都市の無人化・強力な農業本位と民族主義を打ち出し、中産階級的な都市住民を強制的に農村に入植させ強制労働を科しました。

さらに市場・通過の廃止、労農・政治教育以外の学校教育の禁止、宗教活動の禁止をし、教師・医者・僧侶などの頭脳階級や留学生をはじめ、当時の人口のおよそ3分の1にあたる200万人を超える人々の虐殺を行ったのです。

そのためカンボジア国内は混乱し、伝統的な社会システムは破壊されました。

その後、ベトナム軍の侵攻によりポル・ポト派は敗走することになります。

1980代のカンボジアには2つの国家が併存し内戦と二重政権が長期化しました。

1990年に入り国連の介入により内戦は収束し、新憲法が制定され現在に至るのです。

カンボジアの歴史
カンボジアの現状

日本から南西へ4000km。国土は日本のおよそ半分。インドシナ半島の中心に位置するカンボジア王国には約1407万人の人々が暮らし、そのうちの約4割が15歳以下の子供です。

経済
アンコールワット

近年、カンボジアでは都市部と農村部との所得格差、都市内部における貧富の差などが増大しつつあります。

アンコールワットのあるシェムリアップでは観光客の増加にともない外資系のホテルやレストランが多数建設され雇用も拡大、経済の繁栄が見られるようになってきました。しかし、カンボジアの就業人口の約8割を占める地方の農民たちは外国の援助や市場経済化の恩恵は、受けていないというのが実状です。

医療
カンボジアの医療

カンボジアの子供の死亡率は日本の20倍以上、医療事情もいまだに厳しいのが現実です。

1970年代のポル・ポト政権による医師や看護師を含む知識階級の大量虐殺や、その後の20年にわたる内戦によって、この国の医療システムは崩壊してしまいました。政府は医師や看護師の育成に力を入れていますが、指導する人材や臨床実習などの教育施設が不足している為、カンボジアの医療水準は、現在も世界基準において低レベルとされています。

カンボジアの子供の死亡率はアジアで最も高く、下痢や栄養失調など予防できる病気で亡くなることも少なくありません。

また、子供が病気になってもすぐには病院に行かず医師の指示のない売薬を使用してしまう親も多くいます。

特に人口の85%を占める農村部では保健・衛生観念が浸透しておらず、ポル・ポト時代の学問の禁止により字を読むことの出来ない大人が多く、用法・用量を守らない投薬や民間療法に頼ってしまい、手遅れになり助かるはずの命が失われてしまっています。

フレンズ・ウィズアウト・ア・ボーダー

カンボジアでは、1940年代以降の度重なる内戦により、およそ800万個にものぼる地雷が埋まったままで、これまでに4万人を超える一般市民が死亡あるいは負傷しており、今でも多数の人が地雷の被害を受け、亡くなっています。

本来ならば有るべき地雷を埋めた場所が記されている地図が見つからない為、全ての地雷を除去するには数十年かかるとも言われています。

今日でも被害は続き、野原で働き遊ぶ子供たちが犠牲になることも頻繁です。

また、医療施設や医師の不足により、日本や欧米ではほとんど無くなった小児伝染病に苦しんでおり、幼児の死亡率は日本の数十倍ともいわれています。

 

そんなカンボジアの光と影。その影の部分は時として旅行者の目にも飛び込んできます。